2012年11月26日

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神奈川1区の日本共産党の躍進を目指す演説会

 と き 11月26日(月)18:40〜
 ところ 杉田劇場 新杉田駅前ビル
 比例代表南関東ブロックの予定候補のはたの君枝さん、田村智子参議院議員がお話します。
 私もお話をさせていただきます。心をこめてお話します。
 ちょっとした企画もあります。是非お越しください。

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私の決意

 ムダをなくし、消費税増税を許しません。増税するなら富裕層、大企業から。
 「政治を変えたい」との国民の願いを裏切り続けている民主党政権、野田政権では自公元政権と違いはなくなりました。
 私は、自営業者の団体で役員をしていますが、消費税が増税されたらとても払えず、商売を続けられないという業者さんがたくさんおられます。消費税増税は中小企業の営業を破壊するだけでなく、日本経済を破壊し、財政を悪化させます。
 今度こそ、福祉もくらしも、雇用も景気も、エネルギーも安心できる「国民優先」の政治に切りかえましょう。「国民が主人公」の政治を実現させるために、日本共産党の明石ゆきおを国政で働かせてください。


最近のスケジュール
11月22日7時〜8時 山手駅駅頭宣伝
11月26日7時〜8時 金沢文庫駅西口駅頭宣伝
11月26日18時40分〜20時 神奈川1区演説会 杉田劇場
11月28日 中区〜磯子区〜金沢区宣伝カー
11月29日7時〜8時 石川町(元町側)駅頭宣伝
11月30日7時〜8時 洋光台駅頭宣伝
12月3日7時〜8時 金沢八景駅頭宣伝
12月4日 公示日第1声

posted by 明石ゆきお at 22:00 | プロフィール

2012年05月10日

私のプロフィール

  1959年生まれ 東京都立大学理学部卒、横浜市金沢区富岡在住
  自営業でシステムエンジニアをしていました。
  自営業者の団体、横浜南部民主商工会副会長・同金沢支部長をつとめていました(2014年4月退任)。

中学時代
親友から小林多喜二の映画に誘われて見たことが印象に残っています。戦争に命をかけて反対した人がいたこと。平和という言葉はだれでもが使いますが、平和が脅かされている時にそれと闘い得た人は信頼できるのではないかと、若いなりに考えました。
当時の日本社会では公害の被害が大変な問題になっていて、そんなこともあって、このときの親友とは大人はつまらない人種だ、あんな大人にはなりたくない、などと話していました。
親友のお母さんは日本共産党の市議会議員をされていたのですが、「うちのおふくろさんは頑張っているよ」と言ってくれたことを今でもよく覚えています。
ブラスバンドに入り、トランペット、トロンボーンなどを吹くようになりました。

高校時代
ブラスバンドの活動に夢中になっていました。このときの同期のメンバーとはいまでもつきあいがあります。高校は自由な雰囲気で、クラス活動なども盛んでした。
授業の教科の一環でエンゲルスの『空想から科学へ』を読み、感動したと日記に書かれていました。元々理系の科目に興味があったのですが、政治経済の授業のなかで日本国憲法と日米安保条約の関係などに触れて興味を持ちました。

浪人時代
こどもの頃から物事の核心に迫るようなことに興味があり、理学部物理学科を志望しました。1年目は合格できず、予備校がよいの生活となりました。この時期に千葉県船橋市から東京の中野区に引っ越しました。忘れられないのは、1978年の9月27日、横浜市の緑区に米軍のファントムジェット機が墜落し、幼子が亡くなった事件です。このとき、日本の自衛隊は被害者を救出することはせず、米軍を守ることを優先させたのです。このような社会を続けてはいけないと考えるようになりました。

大学時代
理学部物理学会に進みました。大学は学生自治会の活動やサークル活動が盛んで、程なく民主青年同盟に誘われて加盟しました。理系にすすんだものの、社会問題への感心がしだいに高くなり、専門科目の勉強より、社会科学に興味を持つようになりました。趣味の音楽のサークルは辞め、「科学論研究会」というサークルに入りました。ここで戦前の日本の唯物論哲学者戸坂潤さんの著作『科学論』を読んだことが私のものの考え方の確立のためにも重要だったと思います。公害反対運動などが盛んだった時期でしたが、なかには科学そのもの、科学研究体制が悪いと科学そのものを否定する考え方がありました。私はそのような考えに与することはできず、大資本本意、生産第一の企業がその科学技術を握っているために公害などが引き起こされているということを感じていました。この著作がその立場に科学的な根拠を与えてくれたと思います。
大学2年の時に日本共産党に入党しました。このときもマスコミが”新左翼”と読んでいたグループが学内におり、そういう考え方に惹かれる部分がありましたが、やはり理論的な学習のなかで見極めたうえで、入党をしたのがよかったと考えています。
大学には7年間在学しました。3年留年です。この時期に将来についていろいろと考えました。理系の学部では製造業などに就職してエンジニアになるというのが典型的な進路でしたが、科学技術のありかたについてもいろいろと考えるというなかで、素直にそういう進路を選ぶきになれなかったのです。
結局教員志望として3年ほど挑戦しましたが、採用とならず、環境測定などを行っている会社に就職しました。

労働者として
大田区の町工場が並んでいる東糀谷にある会社に17年間勤めました(後半は横浜市東神奈川)。大気汚染の監視システムを開発している部門に所属しました。労働組合はなく、大田区のJMIU地域支部に個人加入しました。労働組合を作ることはできませんでしたが、この組合で企業内組合ではなく、地域で”みんなは一人のために、一人はみんなのために”の精神で活動している組合のことを学べたことは大変大きな経験となりました。
40才を過ぎた頃から、自分の技術者としての人生、システムを通じてやりたいことなどを考え、独立することを決めました。

自営業者に
中小企業や個人相手のシステム開発をめざし、1年ほどシステムハウスに勤めた後、自営業者となりました。会社勤めのときに営業を1年間やったことを生かし、地域で飛び込み営業をはじめ、その中で自営業者の団体、民主商工会に巡り会いました。入会し、自営業者の要求実現活動をしながら、自分の営業活動にも生かす道が開けました。税金の仕組みや応能負担原則などを学び、消費税が零細業者に重く、不公平な税金であることも実感しました。
会社員時代には公然とは党活動ができませんでしたが、日本共産党に入党した以上、地域に根ざして活動したいと考えていましたから、地域の支部に所属し、平和運動などにも参加するようになりました。そこで活動を活発にするようになったことが、候補者として白羽の矢が立てられてしまった(笑)きっかけだったかと思えます。

衆議院選挙に挑戦
2012年の衆議院議員選挙で神奈川1区日本共産党の候補者として闘いました。消費税に頼らなくても社会保障の充実、財政再建は可能と訴えましたが、議席には届きませんでした。

政治家となる決意

2013年は市会議員選挙の選挙から次の選挙までの折り返しということで、金沢区での市会候補を決定する必要がありました。衆議院選挙に出た私には、市会候補にならないかという話がありました。それは衆議院選挙とは違い、今後の人生を政治家として歩むことの選択を迫るものになりました。自営業としてようやく軌道にのってきたこともあり、また民商金沢支部の支部長、横浜南部民商の副会長として、業者運動を続けたいという思いもあり、大きな決意をしていく必要がありました。悩みましたが、金沢区に共産党の市会議員がいないこと、私が市会候補として役割を担う事ができるなら、それを拒むことはできないという思いが次第に大きなものになり、最終的に自営業を辞め、市会候補となる道を選びました。
posted by 明石ゆきお at 00:07 | Comment(7) | プロフィール